近藤勇とは新撰組局長、のちに幕臣であった人物。天然理心流剣術宗家四代目でもある。1834年11月9日農民宮川久次郎の三男として生まれ、幼名は勝五郎。勝五郎は天然理心流剣術道場・試衛館に入門し、近藤周助に腕が認められ、島崎家へ養子に入り近藤勇と名乗る。清水家家臣・松井八十五郎の長女松井つねと結婚。天然理心流剣術宗家四代目襲名する。14代将軍・徳川家茂の上洛警護をする浪士組織「浪士組」に試衛館の8人で参加する。浪士組として京都に着き、江戸への帰還に異議を唱え、近藤らと水戸郷士の芹沢鴨らの24人京に残留、京都守護職会津藩主・松平容保に嘆願書を提出し、「壬生浪士組」となった。八月十八日の政変での活躍が認められ武家伝奏より「新選組(新撰組)」の隊名を下賜され、芹沢鴨が暗殺されると、新撰組は近藤勇主導の新体制となった。池田屋事件や禁門の変で活躍し、慶応三年(1867年)には新撰組は幕臣となり、近藤は御目見得以上の格となった。脱退した伊東甲子太郎らを粛清した報復として銃撃され負傷、鳥羽・伏見の戦いでは隊を率いることができずに大坂城で療養。鳥羽・伏見の戦いに敗れた新撰組は江戸にもどり、近藤は大久保剛と改名。甲陽鎮撫隊として甲府へ出陣、しかし政府軍に敗れる。永倉新八、原田左之助らと離別後大久保大和と再度改名。兵を募集し下総国流山に屯集するが政府軍に包囲され政府軍本営に出頭。大久保の名を貫き通したが近藤と知るものがいたために捕縛され、板橋刑場で斬首された。享年35歳。大坂の千日前、京都の三条河原で梟首にされるがその後の首の行方は分からない。